「今日中に、プールを掃除してほしいのよ」
その一言が、きっかけだった。




暑さと水と恋心




「な・・・プール掃除ぃぃっ?!」
「・・ええ。今年はわたしのクラスが当番なのよ」

・・・あたしが通っているこの学校では、毎年今頃に水泳の授業が始まるので、
プール掃除があること自体は別におかしいことではない。
そして、それを担当クラスの生徒がすることにも文句を言うつもりはない。
問題は――今の時間帯。
空は夕焼け色に変わりはじめ、部活動も終わり、片づけをしている頃。
そう、放課後。しかも、もうすぐ完全下校時間。
もちろん、クラスのメンバーが全員学校に残っているわけもなく。
特に、うちのクラスは文化部が多いので、ほとんどみんな下校しているだろうこの時間。
そのことがわかっているのかいないのか、目の前にいるナーガ先生はさらりとそう言ってのけた。

「で、でも、今日中っていうのは・・・。
もうほとんどみんな下校してるし・・・明日じゃ・・・」

『明日じゃダメなんですか?』
その言葉は彼女の次の言葉によって遮られた。

「明日から授業が始まるのよ」

・・・はぁぁぁ。
大きなため息が、あたしの口からこぼれ出る。

「なんでそんな大事な(?)こと、今まで言わなかったのよっっ!」

いつの間にかタメ口になっていることも気にせずに、あたしは声をあげる。
あたしの言葉に、彼女は大きく胸を張り、

「ふっ、誰しも忘れるということはあるものよ!」
「いばるなぁぁぁぁぁっ!!」

あたしの声が、静かになりかけた校庭に響き渡った。





「・・・って、先生に文句言ったところで、やらなきゃいけないことには変わりないのよねぇ・・・」

ぶつぶつと独り言を言いながら、あたしは掃除用具を持って、北校舎の裏にあるプールに行った。
プールの水は誰かが抜いてくれたようだ・・・った?

「・・・おっかしいわねー・・・さっきはまだ水入ってたんだけどなぁ・・・」

さっきというのは掃除用具を取りに行った時のことである。
プールの横を通る時、水面が茜色に染まっているのを見た気がするんだけど・・・。

「僕が抜いたんですよ」

声は、後ろからした。
あたしはさして驚くこともなく、くるりと後ろを振り向き――


すぱぁぁぁんっ!


手に持っていたスリッパで『そいつ』の頭を叩いた。

「・・・痛いじゃないですかぁ・・・というより、何故スリッパが?」

『彼』は、頭をさすりつつ、あたしにそう問うた。

「痛いように叩いたんだから、痛いのは当たり前よ。
それから、このスリッパは足が濡れないようにするために履こうと思って借りてきたの。
これでいいかしら?――ゼロス」

彼――ゼロスはとげのあるあたしの言葉に特に反応することもなく、

「でも、スリッパなんて履いていたら、滑りますよ?」
「・・・わかってるわよ。
だから、急遽あんたを叩く用のスリッパに変更したの。
・・・それで、なんであんたがここにいるのかしら?」

――言うのが遅れたが、あたしは一応副委員長なんていうものをやっている。
そして、このゼロスは、うちのクラスの委員長である。
さっきまでのあたしの口調でわかってもらえると思うが、あたしはあまりこいつが好きではない。
テストではいつも学年トップで、文化系な顔してるくせに、運動も得意だし。
・・・つまり、何でも出来るのだ、ゼロスは。

「・・・それは・・・」
「『秘密です♪』なんて言ったらもう一度スリッパで張り倒すわよ」
「うっ・・・」

・・・図星か、オイ。

「・・・ナーガ先生に言われたんですよ。リナさんを手伝ってくれって」

口癖を言う前に止められたからか、少し不服そうな表情で言うゼロス。

「ふ〜ん・・・それで、本当の理由は?」

そんな彼の表情を、内心少し可愛いかも・・・なんて思ってしまったりしたのだが、
もちろんそれを表には出さずにあたしは彼にそう言った。

「・・・ほ、本当のって?」
「あのナーガ先生がンな親切なこと言うわけないじゃない。
 んで、本当の理由は?」
「・・・いや、本当も何もそれが本当なんですけど・・・」

ゼロスは困った顔でそう言った。
もちろん、先程の不服そうな表情は、とうの昔に消え去っている。
・・・ふぅむ。
ナーガ先生がそんなこと言うわけないってのは本気でそう思っていったんだけど・・・どうやら違うようだ。
クラスの女子の間では嘘を付かないってことで評判のゼロスが、ここまで嘘を付くとは思えないし。
ま、少しぐらいは嘘付くだろうと思って、さっきは言ってみたのよ。

「あっそ・・・じゃあちゃっちゃと掃除済ませて帰るわよ」

ゼロスと一緒にやるのは少々不服ではあったが。
一人よりも二人の方が効率が良いのは当然だし、早く帰らないと姉ちゃんに怒られるのが目に見えたから、
あたしはそう言って掃除を始めることにした。





・・・しゃこしゃこしゃこ。
ザァ――・・・・・・

2つの気配しかないプールに、そんな音が響く。
もちろん、ブラシでプールをこする音と、水を流す音だ。
そして、あたしはそのうちの後者担当だった。
『力を使うのは男がしなくてはね』
そう言って、ゼロスがブラシ係を選んだのだ。



さすが秀才2人組というだけあって、作業は実に手際良く進む。
あと5分くらいで広いプールの掃除も終わるか・・・という、その時。


つるんっ。


わざわざスリッパを諦めて素足で頑張っていたにもかかわらず。
そんな軽快な音を立てて、あたしは足を滑らせてしまった。

「・・・っっ!」

バランスが崩れ、こけそうになるあたし。
思わず硬く目を瞑った。

「・・・リナさんっっ!!」


ぽすん。


・・・想像していた衝撃は全く感じられず。
ただ何か柔らかなものに包み込まれた感触がする。
そう、わかりやすく言うと暖かいクッションに抱きとめられたみたいな・・・

「・・・大丈夫ですか、リナさん」

・・・頭上からゼロスの声がした。
しかも、何故かかなりの至近距離。
そっと、閉じていた瞳を開いてみる。
・・・。
・・・。
・・・。

「・・・き・・・」
「き?」
「きゃああああっ!!!」

思わず、あたしらしくもない悲鳴を上げてしまった。
だ、だって・・・ゼロスの顔が目の前にあったんだもんっっ。
乙女中の乙女であるあたしが叫ぶのは当然よね?

「な、何してんのよっ?!」
「何って・・・倒れそうになったリナさんを抱きとめただけですが?」

にこやかに答えるゼロス。
それが事実なだけに、何とも言い返せないあたし。

「・・・それにしても、リナさん軽いですねー。
 ちゃんとお食事召し上がってますか?」

言いながら、ひょいとあたしを抱き上げる。
・・・俗に言う、『お姫様だっこ』というやつで。

「・・わっ・・・ちょ、ちょっと、何するのよ!?おろして!!」

じたばたと暴れるあたし。
しかし、そんなあたしの訴えを聞き入れず、プールサイドの方へ歩き出すゼロス。

「人の話聞きなさいよ!
 ・・・あたしっ、あんたなんかに触られたくないんだからっっ!!」



ぴたっ、とゼロスの動きが止まる。
思わずあたしもびくっとしてしまう。
ちょっと・・・言いすぎたかも、しれない。

「"触られたくない"とまで言われると・・・さすがに傷つくものがありますね」

言って、あたしをそっと地面に立たせる。
プールの底はまだ水が乾いておらず、ひんやりとした感触が足に触れる。
ゼロスの表情は・・・逆光で、よく見えない。

「・・・ご、ごめん・・・・」

俯いて、素直に謝るあたし。
ゼロスはそんなあたしの方にゆっくりと手を伸ばしてきた。
・・・何か、される――?!




気がつけば、あたしはゼロスに抱きしめられていた。
あたしの頬にゼロスの胸板があたる。
そして頭上から、切なそうな声がした。

「僕はこんなに、リナさんのことが好きなのに・・・」

・・・ぇ?
ゼロスが、あのゼロスが、あたしのことを好、き――?

「・・・嘘、でしょ・・・?」

顔をあげて、ゼロスの目を見て問う。
ゼロスの表情は、いつもどおりにっこりはしていたが。
目に宿る光は・・・"真剣"だった。

「嘘なんかじゃありませんよ。
 でなければ、放課後わざわざプール掃除を手伝いになんて来ませんよ」
「ぇ、だ、だって、プール掃除はナーガ先生に言われたって・・・」

言いながら、ナーガ先生がそんな親切な人じゃないことを思い出す。
じゃああれは・・・嘘、だったんだ。

「やっぱりゼロスって・・・嘘つき」
「リナさんと一緒にいるため、リナさんのためならどんな嘘だってつきますよ」

あたしの呟きに、さらりとそんなことを言ってのけるゼロス。
顔が無意識に熱くなる。

「で、僕はこんなに貴女のことを想っているんですが・・・リナさんは、どうなんでしょう?」
「・・あ、あたしは・・・」

すっかりゼロスのペースに巻きこまれているのは十分わかってた。
こんなあたし、いつものあたしらしくないってことも。
・・・だけど。
彼の目を見ながら、あたしは。
こんなあたしもいいんじゃないか。
こんなあたしでも・・・彼はきっと優しく抱きしめてくれるんじゃないか。
そんなことを、考えていた。

「・・あ、あたしは・・・あたしも・・・ゼロスが好」


ちゅっ。


あたしの言葉を遮って。
ゼロスはあたしの唇にキスしてきた。

「・・・んなっ・・・!」
「あぁスミマセン、あんまりにもリナさんが可愛らしかったものだからつい・・・。
 で、リナさんのお言葉の続きはなんですか?」

・・・・あ、あたしが一生分かと思うくらいの勇気振り絞って言おうとしたのに・・・っ!

一度引っ込めてしまった言葉をもう一度引き出すのは難しいことで。
しかもこの状況じゃ言うべき言葉は1つしかなくて。
それをあたしだけじゃなく相手も十分理解してるってことがこの上なく恥ずかしくて。

「・・・・・・ゼ、ゼロスなんか大っ嫌いよっっ!」

ぷいっ、と横を向きながら、心とは逆のことを言ってしまった。
でも、そんなあたしの本心なんて、もちろん学年トップの彼にはお見通しのこと。
相変わらずのにっこり笑顔であたしの言葉に応えるのであった。

「そうですか・・・僕は大好きですよ、リナさんvv」
「・・・バカ ///」




その後、あたしたちが家についたのは夕日の沈んだ後だった。
夕飯当番だったあたしが姉ちゃんにこっぴどく叱られたのは言うまでもない。





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